Tomoko Matsukawa 松川倫子

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NYCに来た日本人が幸せを感じる理由(n=1の仮説)

NYC(ニューヨークシティ)でのworking lifeが楽しい。6月と7月の二ヶ月に続き(8月一ヶ月間の一時帰国を経て)9月の一ヶ月も過ぎた。9月は特にあっという間の一ヶ月だった。一時的な滞在先だたっところから次の家が決まり、月末で留学中休職していたグロービスを正式に退職し、来週から新しいチャレンジが始まる。OPTビザ終了時までニューヨークにいることは変わらない。

ここ数日の間「NYC生活の楽しさの理由はなんだろう」と考えていた。

一昨日8年ぶりに同じ大学に進学した日本人の友達とディナーした。彼と私は(おそらく)2001年にあの大学に日本の高校から直接進学したおそらく唯一の仲間だ。大学卒業後すぐ日本に帰国し勤め人を始めた私とは対照的に彼はメディカルスクールに進学し、博士号を取得し、今はポスドクとしてノーベル賞受賞者がゴロゴロといる大学で研究をしている。大学進学前は海外で生活をしたことのなかった彼が「東京に帰れる気がしないよ」と笑いながら言っていた。ここでの生活が楽しくて幸せだという。また別の友達は日本から社内異動でニューヨーク支店に異動し、すでに4年が経とうとしている。彼もニューヨークが楽しいと言っていた。たった3ヶ月しか私は経験していないけれど、この街で働き人をするという生活、幸せを感じることが多い。だから彼らの気持ちもなんか分かる気がする。なんでだろう。

NYCという場所

NYCは古いし汚い。食事だって美味しくないし、家賃はびっくりするくらい高いし、タクシーの運転は乱暴、地下鉄の線路ではネズミが走っていることなんてしょっちゅう。道を歩いているとたまにマリファナの匂いだってする。日本のコンビニや東急ハンズみたいな便利なものは存在しないし、郵便局だってサービスは結構悪い。銀行やクレジットカード会社の間違いだってしょっちゅうある。マンハッタンの夜景の綺麗な写真を撮るのは簡単だけれどもレンズを外して直に道路や店の中とかを見てみると実は相当汚いところが大半だ。

東京にいるときに比べて「買いたいな」って思うものは圧倒的に少なくなるし、ぼったくりされないように色々と気をつけなくてはいけないことが増える。

自分はまだまだ出来ていないのだけれど「嫌な時は嫌とはっきり言う(自分が我慢すればいいという考え方はNG)」とか「簡単にsorryとは言わない(execuse meとsorryの捉え方は大きく違う)」とか「定価で買わない」とか「時間通りに電車が来ないという前提で予定を立てる」とか新しい習慣を意識的に自分に取り入れなくてはいけない。30歳まで自分一人で色々と習慣化してきた人間が変わるのって結構難しいけれども今は少しづつ「郷に入れば〜」を実践しようとしているところ。

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で、まだ三ヶ月ぽっちで、バタバタした状況が続いているので(今日と明日引越し)いわゆる一般的に言われているNYC現地の楽しいことはほとんどできていない。じゃあ何が楽しさ/幸せの背景なのか。特に日本の東京という世界的に見ても相当恵まれている、綺麗な都市で生まれ育った自分がここに来て幸せを感じている理由を改めて整理してみた。

ここでの幸せの源泉とは?

今の段階で自分が辿り着いた仮説は「この街は以下の二つがそろっている環境だから東京から来た自分は幸せを感じやすいのではないか」ということ。その二つの一つ目は

「人間としての基本に立ち戻る」ことを促す環境

となっているという点。もう一つは

自分の仕事に対して自分がownershipを発揮することがよりできる環境

となっているという点(これは仕事内容もそうだけれども労働時間/場所という要素も大きい、なので自分以外の人が共感するかどうかは人それぞれだと思う)。それぞれについて自分なりに考えたことを以下に長文のままつらつらと書いている。

人間としての基本的な欲求、満たせば幸せ

まず一点目について。マズローの欲求段階に照らし合わせて考えてみる。物質的に恵まれた環境で生まれ育った、渡米前の私のような人は、このピラミッドの上の方「周りに認められたい」「自己実現したい」という欲求に意識が向いた状態にいる。でもこれって結構疲れること。まず欲求がフルで満たされることなんてほとんどない。というかキリはない。「隣の芝生は〜」状態から完全に抜け出す事は難しく、満たされたと思ったとたんに「もっともっと」という気持ちにさせられてしまうタイプの欲求カテゴリー。つまり「欲求満たされる」ことがほぼない欲求に向けて頑張っているということになる。

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http://www.kumagomachan.com/2012/12/blog-post_17.htmlより

逆に、下のほうにある物質的欲求は「欲求満たされる」=「幸せ」という式が成立しやすいものなのではないかと思う。生理的欲求も安心/安全の欲求も無限に存在するわけじゃないし、愛/帰属の欲求でさえ、ベースがあれば比較的容易に幸せという気持ちにつながり、その気持ちが持続しやすいものだとも感じる。そして、これらの欲求を満たすことというのも自己実現や自尊の欲求に比べて比較的簡単だ。(配分するリソースがある人の話となるけれど)自分の時間の使い方や自分のリソース(金銭的)の使い方を意識的に変えるだけで満たされることができたりする。

で、何が言いたいかというと

NYCという外部環境が、そこにいる日本人に「マズローの階級の下のほうにある、満たされると幸せにつながりやすい種類の欲求」へ意識や行動を促すものになっているのでは、ということ。比較的満たすことの容易な欲求、かつ満たされると幸せを感じやすい欲求。こういうことが日本にいた時に意識を向けていた欲求より優先順位が高くなるのだ。NYCという「過酷」な環境が私達をそのようにしむけている。

ニューヨークで健康的な食事や日本流に味付けされたものが食べたければ自炊がベスト。圧倒的に安く、美味しい食事にありつける、それだけでかなり幸せだ。または体調管理のために川沿いやセントラルパークでジョギングすることも、自分の意識と行動次第で出来る。これも幸せな気分にしてくれる。家を自分流にデコレーションやアレンジする人が多いのも、家という「安心の住処」を大切にしていることの憧れだろうし、家で家族や友人とまったりすることで得られる幸せもある。スポーツ系のコミュニティ、宗教をベースとしたコミュニティ、アートをベースにしたコミュニティなど・・仲間を見つける場所もたくさんある。私自身「大学時代の卒業生ネットワーク」や「大学院時代の卒業生ネットワーク」に加え「教育学/教育サービス関連者x日本人」という最近出来て来たネットワークに所属していることにも幸せを感じている。

NYCというこの街では他人と比べて自分はどうなっているか、とか他人から見えてどう思われているか、もほとんど気にしなくなる。

それよりももっと人間として基本的なこと、健康でいること、自然に時折ふれること、道で会った他人でもふっとしたきっかけで微笑みを共有すること、同じことに感動したり喜びを感じる人達と緩くも確かな関わりを持つこと、一緒に自分達が楽しいと思うことに時間を使うこと・・・・そんな日々が繰り返されて行く。こういうのって幸せだなぁ、と感じる。

仕事の質と量は自己責任、だから幸せ

前者はちょっと長くなってしまったけれど後者はもうすこしシンプルだ。この街で出会った、選択肢を持っている人達の中で、幸せそうに生きている人は大体自分の仕事に対して自分がownershipを持っているという点。

まずは「質」。

好きな事を仕事にしているか、仕事でワクワクを感じているか、という話。より、好きなことを、またはより、ワクワクなことを、という方向へシフトするownershipを自分が持っているかどうかという点。

労働市場の流動性が高いこの環境では、している仕事が自分にとって「(得るもの)<(犠牲にしているもの)」かどうかで人は転職という道を考えることができる。この「得るもの」の判断軸は人によって経済的だったり、知的だったり、社会的だったり、と色々あるけれども多様性が大前提のこの街では他人の判断軸がどういうものかなんていうことも気にならない。人はそれぞれの理由があって転職をするのだろう、不満があるならなぜ転職への努力をしないのか、スキルを身につけて転職市場で価値がある人間になる努力をしないのか、そういうメンタリティがベースとしてある。(注:もちろんSocial economic statusの異なる層の人にはまったく通じないロジックだとも思う)

そして「量」。自分は転職に対してあまりハードルを感じない人間に日本でなっていったので上記の「質」のところは東京もNYCもあまり変わらない。とはいえ、この「量」の話は違いとして大きい。これは単に労働時間が短ければいい、仕事量が少なければいい、という訳ではなく。自分が仕事に投資したいと思っている時間や労力(頭も手足も)をある程度自分でコントロールできるかどうかという話である。

ライフステージやキャリアステージによっては集中して頑張らなくてはいけない時は皆必ずある。私だって証券会社時代よりも圧倒的に労働時間が人間的だったグロービスのコンサル時代も一人で終電後まで残って提案書を修正し続けたこともある。NYCにいる高校時代の同級生も医師の研修医として睡眠時間もギリギリのとてもハードな日々を送っている。でもそういう時って自分で選択して自分がやりたくてやっているのだから人はそこまで不幸せを感じない。寝不足にはなるかもしれないけれど精神的にリカバリー可能な話だ。

問題は自分のコントロール外で、しかも終わりも見えない、unsustainableな働き方を求められる環境にいた場合。これはリカバリーが難しい。別にこれは夜中まで残業する生活がずっと続く社員の人のみならず、ちょっと中途半端な夜8時まで残業する日々が続く社員の人にも関係する話だ。なぜならば18時に退社することができた人がその後に使える時間でできることと、20時に退社することが出来た人ができることには雲泥の差があると思うから。18時に退社し、その後何かに、誰かと自分の時間を費やして夜にあとで自宅に戻ってからメールをチェックする形のほうが私は個人的に効率が高くなるし、幸せも感じやすい。そしてNYCで働いている人は全体的にそういうこと(仕事は結果が重要で、途中で自分にとって大切なことがあったらif work can waitなのだったら就業時間後の使い方は自由でよい)が当たり前と思っている人のほうが大多数なのだ。この「大多数」が醸し出す空気というものはパワフルだと思う。日本では残念ながらこの比率が逆転していると感じる。

先日ライフネット社の出口社長が「長い日本の労働時間は何が原因か」という記事を書いていた。「ダラダラ働いてもいい仕事は出来ない。集中力を高めて効率的に働くことが、いい仕事に繋がるが、集中力はそれほどは持続しないので、その観点からも長時間労働には意味がない」と断言されていた。上記の通り、自分で選んで長時間根詰めて働くことはたまにはあると思う。なので長時間労働で意味がある時も少なからずあると思うけれど、出口社長の言っていることは結構重要なことだと私も思う。

今いるニューヨークのオフィスでも私は一人で定時18時まで仕事をきっちりしなくては、と思って17時45分に仕事が終わってしまうとソワソワして18時までなんとなく残ってしまったり、サービス残業する日数が他の人より多かったり、自分でも「日本人だなー」と思うことがよくある。自分の周囲は仕事の効率次第で5時半に帰っている人もいるし、子どもを迎えに、とか、歯医者があるから、とかでもっと早くに帰ったりする人もいる。ほぼ全員が18時を過ぎるとオフィスからいなくなっていることもしばしばだ。

日本からNYCに来ただけで自分が今まで信じていた労働時間に対する考え方が「マイノリティ」になる。この経験はなかなか衝撃的だ。しかも、社会人8年目で初めて「18時退社人生」を実行しながら気付いたのだけれど、短時間で集中して仕事をすれば、after 6の時間に一点目として上で説明した「人間としての基本的な欲求」を満たす活動に充てられる時間も大幅に増える。その活動を手放したくないから18時までは本当集中して頑張れられる。好循環が生まれやすいと感じる。

Don't live to work(働くために生きるな)、work to live(生きるために働け)

私が新卒時証券会社の就職が決まった時に、両親の友人で金融業界が長かったおじさまに「Don't live to work(働くために生きるな)、work to live(生きるために働け)」というアドバイスをもらった(もらっても当時はその意味が全くわかっていなかった)。

NYCで私が見ている働き方はまさに「work to live」だと感じる。自分の人生を豊かにするための仕事という捉え方。自分が大切にしているもの、ひと、自分の気持ちを尊重するための仕事という手段。もちろんそういうものにはお金が必要なことも多いからそのための仕事という手段。

そういった「仕事」の「量」「質」を自分でコントロールしていく。コントロールの仕方は人それぞれだし理想と思う「量」も「質」も同じ人でも絶え間なく変化していくもの。でもその変化に合わせながら自分にとっての幸せを紡ぎ出していく。そんな日々を送れる人達がニューヨーカーなのかもしれない、と感じている今日このごろだ。

「Control your destiny or someone else will」

(自分の運命は自分がコントロールすべきだ、じゃないと他人にされてしまうよ)とはジャックウェルチの有名な格言だけれども、これって色んなところに応用可能なフレーズだと思う。私はご縁や運命といった人間の意識下でコントロールできない部分の存在も信じている人間なので、全部すべてコントロールをキツキツにすべきだという考えを持っている訳でない。むしろ偶然や想定外の出会いを楽しむ気持ちはとても大切だと思う。ただ自分である程度コントロールすることで他人や外部環境に翻弄されるのを避けるのはできるはずと考えているだけである。

不幸せと感じるならば幸せな方向に持って行くために自分ができることは何か、また自分の「幸せ」の定義が限定的なものになっていないか、「他人に植え付けられた価値観」にしばられていないかどうか。幸せに辿り着くpath(道のり)も一種類にしばられていないだろうか、他の形で表現できるのではないだろうか、そういう考えもたまに必要だと思っている。時間は無限にある訳ではないのだから。

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東京と似たような大都市であるNYC。幸せの定義や幸せの産出方法はそれぞれの場所でなんだか大きく異なる気がしている。タイトルに「日本人」と入れてしまったけれども、これはきっと「東京人」の話かもしれない。

NYCもまだ3ヶ月しかいないので、これがどのくらい続くのかは分からない。東京の新入社員時代のほぼ半分くらいの収入で、物価2倍近いこの街で、こういう生活が続けられないのも現実問題としてある。それでもこの「幸せ」溢れるこの街での生活はしばらく辞められそうにもない。OPT終了の5月末までたっぷり満喫したい。

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