Tomoko Matsukawa 松川倫子

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他人に対して意見を伝える/オピニオンを持つ前に

「The hard work of understanding」

私の好きなブログの一つ、 Seth Godinの数日前のエントリーのタイトルが「The hard work of understanding」でした。短いエントリ-ですが、相手を「understand」するには努力が必要だ、といった内容です。

私達は何故、相手を「understand」しようとする前にオピニオン(意見)を持つことを急ぐのでしょう。何故書かれていること全てを読む前に書き手の意図を解釈しようとするのでしょう。何故顧客やステークホルダーと直接関わり合う前に相手のニーズを決めつけようとするのでしょう・・。そんな内容のエントリ-です。

このエントリ-を見て思ったのは私達が誰でも大人になるにつれて身につけていく「とあるスキル」のこと。

そのスキルとは、過去私達が見聞きしたことや体験したことを自分の中にパターン化しながら吸収し、新しい情報に触れる度にそのパターンに紐づけながらスピーディーに解釈していく力。

自分の知っている事、自分の信じている事、自分がこうあってほしいと感じている事に自分の目の前に現れた情報を無理矢理引っ張ってしまうことすらできる力。

意識的であろうがなかろうが、私達は本能的にこのような力を知らず知らずのうちに習得しているという事を意識させられたSethのエントリー。

また、その「本能の波」に飲まれないようにするには意識的な「hard work」が必要なのだという事を考えさせられたエントリ-でした。


他人に意見を言う前に考えたい二つの事

特に問題なのは、この「限られた情報」を元に自分の過去からの知見をベースに判断を下す習慣を「人」に向けてしまう時だと感じます。「hard work」をすっ飛ばして本能に任せてしまう時。自分も昔は今以上にやっていたので当時の自分に対する自戒を含めてですが、この行為にあると考える二つの問題点をまとめます。

まず一つ目は「人間というものがどれだけ複雑であるか」ということへの配慮が欠けているという点。もう一つは「他人に何らかの判断を下す」という行動がhumilityに欠けているという点、です。

①人間は複雑、という話

以前リーダー育成のアセスメントを手がけるLectica社のツールの話をブログに書きました。彼らの提供しているツールの特徴の一つは「人の能力はcontextual(状況に左右される)である」という思想であり、同じ人間でも、測定テストを受けた時の状況によって結果は異なる、という前提が設計背景に存在している点にあります。

以前ブログで書いたストレングスファインダーも、そのときそのときで結果は左右されることが知られています。

自分が何度もこのブログに書いているEgaku Workshopという抽象画を描き、鑑賞することで内省を深める社会人向けワークショップ/経営層育成コンテンツ/企業の組織変革ツールも、同じ人間の描くプロセス/アウトプットが変化していく様子に注目しています。

人間は変化する。

私達の目にしている他人の姿はあくまでもその瞬間瞬間の姿にしかすぎない、ということをそれらの事例から痛感するようになりました。

加えて、リーダー育成で有名な「氷山モデル」もあります。行動という形で見えている他人の姿はその人全体におけるごく一部に過ぎない。

合わせて考えると、とある人間を「理解した」と軽々しくは到底言えない、そう思うように、または、そう思わなきゃ、と感じるようになりました。

②Humilityが大切、という話

そしてもう一つが「who are you to judge another?」といった話です。(最近彼と通うようになった教会で聞いた話より)キリスト教の教えでは、神のみが人をjudgeする権利があるため、他人に対して裁きを与える権利は人間にはない、といったようなことが伝えられています。間違っていたらごめんなさい)自分は信者という訳ではないですが、この話を先日聞いた時、日本語の「他人の人生をとやかく言う権利があるのか?」といったフレーズを連想しました。

また、今夜話していた内容にも関連する話がありました。

ミッションdrivenで経営されている組織の人材採用に関する話。大切にする価値観をベースに人材を集めていくという「ビジョナリーカンパニー2」的な組織において、採用面接中に必ず見られるポイントは「この人材は我が社のバリューに沿った人間かどうか」という点です。

「我々が大切にするバリューに対して(応募者の語った内容が)物足りなかった」という面接事後報告をしてきた社員がいたそうです。

その内容と伝わってきた姿勢に怒りを覚え、危機感を感じ、個別に注意をしたといった話をそんなバリュー重視型組織の人事担当者がしてくれました。

そのときに彼女が使ったフレーズも「who are we to judge」(私達にそんな判断を下す権利はあるのか?)、またもう一つ使っていた単語は「self-righteous(自分だけが正しいと思っている、ひとりよがりの、独善的な)」でありました。

同じ価値観を共有する仲間が集まることで組織は強くなることはできる。その一方で、そのようなメンバーばかりが固まってしまうことで「self-righteous、lack of humility」な組織になるリスクもある。・・・そんな可能性にまでアンテナを張っている彼女はとても健全な人だ、と思ったのが印象的でした。

・・・上記の教会で聞いた話も採用面接での話も共通点はHumilityの大切さだと自分は解釈しています。

昨今話題のツイッター上の炎上事件などを見聞きする度にも似たようなことを考えさせられます。



Humilityが大切な一方で、 ある程度の「自分が正しいと思うことに対する信念」がないと他人を動かす、他人をinspireすることも、educateすることもできないとも感じます。なのでそんな簡単な話ではないのも事実。正しいバランスなんてないのだろうと。

とはいうものの、今の自分にとって大事なレッスンは、本能や衝動的な感情に流されそうになった時に、「自分は他の人をしっかり『understand』しようという努力をしているかどうか」、「彼らに対して自分が『こうあるべき』を伝える立場の人間なのだろうか」・・・そんなことを一度立ち止まって考えることじゃないかなと思います。