「人のために何かをしたい」という気持ちが『悪』につながるとき
今日はAcumenのサマーインターン達向け研修プログラムの一環で読んだ以下の記事&情報から考えさせられたことについて。
プログラムで得たインプットは次の三つ。
「Slumdog Tourism」(New York Timesの2010年8月の記事)この記事についている読者コメントも目を通すように言われる
Ivan Illich氏が1968年4月に某カンファレンスで話したといわれるスピーチ「To Hell with Good Intentions」の原文
「Slacker」と「Activism」の造語である「Slacktivism」という考え方
詳細は上の記事を見てほしいのですがこれらのインプットを得て感じたことは:「人のために何かができるというのは奢りではないか、相手のために本当になっているかという想像力をきちんと働かせているか、相手のためになるはずという自分の信念のベースはどこから来るか、それを信じることと現場を直視し、それを修正する柔軟性をもつことのバランスはとれてるか」ということを問い続けることの重要性でした。
Acumenは貧困と言われる環境で生活している人達のDignity(尊厳)を守ること、それが尊重される環境づくりを持続可能な形でしていくことをとても大切にしている団体です。そのような背景もあって、これらの読み物が課せられれたのだと思うのですが、発展途上国にも行った事がなく、日本でも東京をほとんど離れたことのない自分は恥ずかしいくらい「貧困」の現状を理解できていないなーという感想を日々業務で抱いていて、毎日勉強の連続です。
Acumenの活動に日本にいるときからボランティアとして関わっている時でも常に自分はどれだけ世界の貧困の事を理解しているか?と疑問を感じながら関わっていたのです。
でも、今回のディスカッションをしたときにハッとしました。この考え方って別に貧困と言う環境にいる人達が対象である時だけではなく、自分がもう少し身近に体験した他の様々なことにも関わっている話なのではないかな、と。
例えば身近なところだと(全て自分の経験)
復興支援という名の下で東北に行く事、
教育をよりよくしたい、という目的のもとでテクノロジーの導入を提案する事、
Secret Santaという名目で児童養護施設を訪問する事(証券会社時代のCSRのプロジェクト)、
リーダー育成の必要性を唱えて研修提案をし、提供する事・・・・
どれも「相手のために」という気持ち with good intentionが出発点にあり、かつ、上記の記事にあるようにpositiveな結果も少なからず生み出すこともあると思われる行動。何もやらないよりはいい行動だと今でも私は思っているのだけれども、ただ、上に書いた問いは、こういった活動に関わる際は常に意識しなくてはいけないな、とも思わされました。
「人のために何かができるというのは奢りではないか、相手のために本当になっているかという想像力をきちんと働かせているか、相手のためになるはずという自分の信念のベースはどこから来るか、それを信じることと現場を直視し、それを修正する柔軟性をもつことのバランスはとれてるか」
自分が対象と思っている「相手」が本当は何を求めているのか、自分達が「これが(相手に)必要だと思う」と決めつけていないだろうか、ちゃんと相手と直接対話をしているか、相手の声をきちんと聞いているか、・・・そういうことを考え続けないと、相手側に自分達の想像を超えたところで嫌な思いをさせてしまうことがあるのかもしれないな、と。
少しトピックが異なるものも、最近日本で話題になっていた「女性手帳」「育休三年」の話だって、きっと本来は「女性のために」という意図が背景にあったはず。ただ実際の現場の話を十分に吸い取っていなかったり、女性の多くと直接対話をする機会がなかったから色々とした反発を生んでしまった。一部の人にとっては「悪」にしか見えなかったのだろう。
そのように、「誰かの為に何かをする」ということは色々なことが起こりうる、複雑な道のりなのかもしれない、重要な道だけれど。自分達の考え方、自分達の取る行動の背景にある「隠れた前提」に意識を向けることを忘れないようにすることが重要だな、と改めて思いました。
こんなことを思ったりしているので前回紹介したAcumen Manifestoのこのフレーズが好きです。
「The humility to see the world as it is, the audacity to imagine the world as it could be.」
このバランスが重要だと思うから。
参考エントリー: