「伝えたいメッセージを文章にする」実験

「伝えたいメッセージを文章にする」実験参加

先日いつものようにRSSフィードをみていたら、Chikirinさんのエントリ-「伝えたいメッセージを文章にする」がありました。元々私のブログは自分のメモ帳的な存在から始まった事もあり、「伝えたいメッセージ」が凝縮されたエントリ-を書く事が苦手です。

ということで、面白い実験だと思ったので参加してみる事にしました。その実験とは、



としたらどうブログを書くか、という課題。さて書いてみようと思います。迷ったのですが、一応今日本にいるという設定にしてみます(ご存知の方も多いように本当はニューヨークにいます)




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デジャヴ?ニューヨークの記憶と東京の「セレブスーパー」

アメリカにいた時は特に違和感を感じていなかったことだったはずなのに、日本に帰って来てしばらくして忘れていたこの感覚。でもそれを都内で感じるとは実は思ってなかった。変な感じ。

それは美容院の帰りにふらりと立ち寄ったスーパーで感じたこと。そのスーパー(もはやスーパーという名称が相応しくないと思わされる)の価格帯がびっくりするくらい高いのと、そこに来ている顧客層が皆裕福そうな雰囲気だったのを見たときに感じたもの。

自分が普段よく行くスーパーも綺麗な方だと思うし、商品もそこまで安いという訳でもないはずなのに、このスーパーを見た後はなんだか「自分は庶民」みたいな格差を痛感させられてしまう感じ。そのくらい他の私が今迄知っていたスーパーと異なる空気をこの「セレブスーパー」は放っていた・・。

その店に来ている客の訪問目的は近所のスーパーに来ている客のものと同じ「食材調達」のはず。同じ目的を満たすための空間/小売店なのにここまで明確に経済的な格差を感じさせられるとは。しかも日本、東京で。そういえば先日こんな記事が出ていたっけ。「所得格差、過去最高に 世帯所得は3年で40万円も減少(ハフィトンポスト日本版 2013年10月11日)」

ニューヨークでは数ブロック歩くだけで価格帯が異なる商品を取り扱っているスーパーなんて至るところにあったし、野菜/果物を買うだけだったら路上の屋台や、週末に至る所で開催されている青空市場もあった(しかも青空市場のは新鮮で美味しい)。と、思えばオーガニック食材を会員制で定期的に購入できるリッチな(しかもwaiting listとかあったりする!)生協システムが存在してたりと、あらゆるSES(social economics status)に対応した「食材調達」元が存在する。あの国の状況(関連ビデオ)を考えたら当たり前なのかもしれないけれど。

その上あの街には経済的な違いだけでなく食文化・宗教・民族的な違いで顧客層が違う小売店もたくさんあった。そんなことが結構当たり前の場所だった。だから今日自分が東京で感じたものがあの街にあったとしても、とくに違和感なんて抱かなかったと思う。でもどうやらしばらく東京で生活しているうちに自分に「スーパーはどこも同じ」という感覚が戻ってきてしまっていたのかもしれない。だからなんかビックリした。

これを元に「格差が広がっているのか!?」みたいな結論には飛べないけれど(自分が今迄知らなかっただけでずっと前からあのセレブスーパーはあったのかもしれないし)、先日発表されたPISA結果(日本で経済的に豊かな学校の子とそうでない学校の子の間の差が開いているという話)のこともあったので、この国でジワジワと広がりつつあると各方面で言われ始めている格差問題、もっとこれから広範囲に、様々な形で自分達の生活内に「見える化」されていくのかもしれない、そんなことを思ったりした。

親を見て育つ子ども、オーガニック納豆が買う子ども

実は今回もう一つ印象的だったのは、そこで見た一人の女の子の行動。その「セレブスーパー」に一人でお使いに来ていたと思われるその子はおそらく6歳くらい。その店にすっかり慣れた様子のその子。近くにいる店員さんに向かって「オーガニック納豆ください」と話しかけていた。

それを見て私は「いつも親がオーガニックの食材を買う家庭なんだろうな」と思った。自分が6歳の時はオーガニックなんていう単語を知っていただろうか、と値段をさりげなく確認しながら。

彼女はおそらく「納豆ならオーガニック」(または「食材は全てオーガニック」)っていう家庭環境で育っていて、周りの人から見たら「経済的にゆとりがある」という今の環境を「ゆとりがある」とか意識することも特になく。周りの人から見たら「食材の選択にこだわりがある」を「こだわり」と特に意識することも特になく。これが「ふつー」と思って大人になっていくのかもしれないな、とか。

彼女の「ふつー」が「ふつーでない」他の環境で育って行った個人と将来出会った時どういう反応をするんだろうか、そんなことを考えた。

教育っていう分野に入り始めてから常に思うことだけれども、食材の選び方に限らず、自分達は本当にたくさんの価値観を親(や自分を育ててくれた大人達)から受け継いでいる。家庭教育で受ける影響はあまりにも大きい。K-12や大学教育や社会人教育に触れて行く中で「結局親・家庭だ(特に幼少期)」と究極の結論に気持ちが傾くこともなくはない。社会人にとって最初についた上司/先輩の影響が大きいのと同じように。

自分の子どもに(自分が思う)ベストな人生経験を体験させたい、という気持ちの強い親であればあるほど、自分の信じる「良い●●」像、または「ふつー」基準について語って、それを子どもが実現できるための手段を提供したり、自らが手本を見せたり。自分はまだ親になったことがないけれど、きっとそんな「子どものためを思って」が家庭教育のベースにある。

オーガニックの食材を使うことが子どもの健康/wellbeingにとってベストだと思っている親が「食材はオーガニックもの」を家庭内で徹底するのもそうだと思う、きっと。


「これが良いから」「これがフツーだから」の罠

でも・・・この親が子のためを思って与える「良い●●」像とか「ふつー」基準って、trickyだよね、と最近思う。特に変化のスピードが早く、親と子の間(20数年〜40年弱)どころか、7-8年歳が違うだけで見て来た社会とかその中をsurviveする上で求められている姿勢・スキルが違う今の時代は特に。

多分世代を超えて変わらない普遍的な「良い●●」像はあると思う。食材と同じレベルの話ではないけれども、例えば、他者に対して優しさを持つことの大切さ、とか、諦めない心を持つ、とか、家族を大切にする、とか。例えば話題になってた「人生の9割は親で決まる」やそれを受けてHGSEの先輩が書いていた「人生の9割は親の夫婦仲で決まる」にあったもの。こういうのは親を通じて子は学んで行くものだと思うから親/周囲の大人の見せる姿、語る言葉というのはきっと本当重要。

一方で、子ども側に、彼らの親が発する「良い●●」像以外の見方を自ら組み立てさせる余地を与える必要があることももっと認識されてもいいのではないかな、と最近思うことが多い。時代の変化と共に、親の世代の「良い」と思われていたお手本が必ずしも当てはまらないトピックもでてきていると思うから。

例えば「どういう学校に進学すると良い」とか「こういう勉強の仕方をすると良い」とか「あそこで仕事をすると良い」とか「そういう人と結婚すると良い」とか。

オーガニック食材に敢えて戻すとすると、「オーガニック食材しか食べません、それがふつーですから」な人がいたとしたら、将来生活できる国とか都市とか限られてしまいそう、ややもったいない。自分にとっての「身体に良い食材」の定義は、そのときそのとき自分が選んで歩んでいる人生の外部環境を踏まえて、ある程度柔軟であるほうが総合的に豊かな人生にになれるような気がする

自分が「良い」とか「ふつー」とか信じ込んでいたものをunlearnするのは楽ではない。私も苦手。自分も「堅いな」と思うし、たまにアメリカ人の彼にも指摘される(で、喧嘩になる)。

でも、自分が大人になっていく過程で少しづつだけれど、いくつかのunlaerningに成功し、その先に見えて来る可能性に魅了され、自分を縛っていた「ふつー」から解き放れ、小さな成功体験が生まれて行った。そしてその経験を通じてちょっぴりと「自分は自分が良いと思う道でいいらしい」という気持ちも芽生えてきた。

放っておくとカチコチになりがちな自分の心の中に住む「良い●●」像の柔軟性の確保。柔軟性大事。unlearningはやっぱ楽じゃないから。



そんな最近思うことと今回のスーパーでの体験からのポイントを、教育に関わる人間としてまとめるとすると、やっぱり子ども達にはいつかの段階で、①今自自分が信じているものが、誰かに影響されて形成されたものでないかと考える力、②自分が絶対そうだと信じているものから一旦距離を置いてみる力、③自分にとって異質なものを受け入れてみる力、④それを踏まえて自分で自らここを目指したいという姿を描いて行く力。そういうのスキルの発達をサポートするきっかけを提供していかないとな、と思ったり。

と同時に、ものすごく重要だと思うのは、その子ども達を取り巻く大人にも、①自分達の価値観をベースに形成した「良い」「ふつー」が押しつけになっていないかを振り返る力(メタ認知)、②そもそも自分の価値観となっているものはどこから来たものなのかを冷静に考える力、③子ども側の声をしっかり聞く力・言っていることのみならず、行動からも彼らが考えていること察する力、④子どもを信頼してコントロールを一部手放す勇気、などの重要性を意識するきっかけを提供することかな、と。

以上、実験終了★
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うーん、やっぱりダラダラした文章になってしまう。というか長い。。
思考を文章にするって難しい。

ちなみにこの実験、何人の人が参加するか分からないけれどc-MOOC(connectivism MOOC)の要素が入っている気がしない訳でもない。インターネットとブログを媒体とした、面白い学びの場ですね。


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関連エントリ-:EGAKUワークショップ(大人向け、子ども向けアートワークショップ)
関連エントリ-:2種類のMOOC、3つの理論(前半)


相対的に価格帯高めのWhole Foods Market
Yelpでも「$$$」マークがついています












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